今回は、アニソン界の第一人者、影山ヒロノブさんにインタビューさせていただきました。2000年代に入り、ご自身のライフワークとして、月2回、アコギ1本で全国津々浦々まで音楽を届ける活動をする中で、メルシーズにて初めてライブをしていただいたのが2012年2月の事。それから、計4回のライブをメルシーズでおこなっています。 4回目のライブとなる本日、ライブ前の貴重な時間にインタビューさせていただきました。 影山ヒロノブの声をお届けします。


以下 (N)メルシーズ 中田 (K)影山さん
(N)3年ぶりということで、よろしくお願いします。

(K)3年ぶりになりますか、よろしくお願いします。

(N)2015年の、調べたら1月11日にいらっしゃって、3年ぶりということになります。

(K)この店は3度目ですよね?

(N)3度目です。

(K)はい(笑)

(N)影山さん、多分、2号店よりもこっちの1号店のほうが、合うでしょ?

(K)そうですね、一番最初こっちで…それでもう一つのほう(2号店)に行って、こっち来たんですよね。

(N)そうですね。はい、今日は4回目ですから、まぁ、あの図々しくもインタビューをさせていただいて、うちのホームページのほうでもいろんな方と対談させていただいて、その方の生きる道というか、そういうコーナーがありまして。それをやってるものですから、すみません30分ほどお時間いただきますが、よろしくお願い致します。

(K)大丈夫です!よろしくお願いします!

(N)さっそく、いいですか?

(K)はい。

(N)レイジーというバンドでデビューしたのが16歳ということで、それが20歳の頃にはもう解散ということで。その頃にはアニソンシンガーなんていう今の立ち位置は、多分想像できなかったと思うんですよね。で、解散が20歳だったらば、普通の20歳だったら、社会に出立てで、世の中の仕組みも分かんなくて、路頭に迷って…ただ1回、ある程度人気の出たバンドだったらば、
、まぁ不貞腐れちゃうというか、なんていうのかな、人生を斜に構えちゃうというか、20歳そこそこだから。で、そのあと22歳で結婚されて、全国ツアーをやられて、バイトも始めてって書いてあったんですけど、この本※の中に。先が見えない中でも、どうしても歌をやめたくない、歌い続けたいっていう衝動にも近い感情があったと…その影山さんの20代の頃の事がすごく興味があって、僕は。その20代っていうのは、影山さんは今56歳、7歳だと思うですけど。20代は今思うとどんなだったのかなと、聞いてみたいと思って。

(K)そうですね。まぁ…あの、10代のバンドって結局、バンドで大阪から友達と出てきたんで、ある程度、自分の意志というか、いい意味で、友達と一緒に成り行きでチャンスをつかんで、東京に来てデビューしたっていう感じだったんですよね。それが20歳で解散して1人になって。で、本にも書きましたけど、自分に曲が作れるわけでもなく、詩も書けるわけでもなく。なかなかこう「影山ヒロノブっていうのはこうなんですよ」っていうことを世間に伝えることができなくって。やっぱり10代の頃につかんだファンの人とか、人気とかってのはすぐになくなっていくんですよね。あの、まぁ落ちるときは早いってよく業界では言われるんですけど、その典型で。やっぱりソロとしての方向性が見えない、実力もまだイマイチだっていうところで、すぐ食えなくなったんですけど、その時に初めてこう、なんか、自分が本当に音楽が好きなのか、本当に歌が好きなのか、多分世の中から試された時だというふうに思うんですよね。だからもう普通に考えて、食えなくなる、結婚もする、曲も書けるわけでもないってなると。まぁ…転職っていうか(笑)まだ…ねぇ、20歳、21歳、22歳とかその頃だったんで。じゃあ、転職するのもアリだなくらいに、僕を預かってたその当時のレコード会社の偉い人なんかも、「まぁ、まだ影山、今ダメだからっつって、やり直しのきく年齢だから」って言うような人もいたんですけど。でも、そこまで追い詰められたときに、「やっぱり、歌いたい!」っていうふうに、自分の心が、とにかく音楽やりたい、歌うたいたいっていうふうに、自分で初めてすごく分かったんですよね。で、だからそこからまぁ、事務所を替わったりして、そこで出会った山口さんとかが「ホンマにやる気があるんだったら、バックアップしてやる」って。それはでも、芸能界のプロダクションじゃないから、いろんなことはできないけど、ライブなら沢山やらしてやるって言ってくれた時に、もうすがるような気持ちでそっちを選びました。

(N)なるほど、はい。

(K)だから、自分の20代の前半は、世の中から自分が本当に音楽をやりたいのかどうか、試された時代だった。

(N)あの、その中で1年で100本、5年間で500本ぐらいのライブを、要は車を改造してそこで寝泊りしながらってことですよね?

(K)まぁ、改造じゃないですよ(笑)もうそのまんまで、ずっと車でツアーしてました。

(N)はは。その中で、『僕は自分の声を自分だけは信じてやりたい。』って。なんかすごくいいなぁと思って。その500本のライブの中で自分の声が太くなって、お客様に媚びないような声になって、みたいな感じで、変化していったんでしょうかね。

(K)そうですね。

(N)バンド時代はお客さんに、女の子に媚びているとか、分かんないですけれども、自分の声が、声質が変わっていくとか、そういうのが20代の頃にたくさんライブをやったから、声が変わっていって、誰にも媚びない声、骨太の声っていうのに、今…まぁ今はもう理想の形っていうか、そういうふうになっているんですかね?

(K)そういう意味で言うと、やっぱり歌ってこう…要するに結論から言うと、理想の声っていうのは、行けば行ったでまた先ができるから、辿り着くっていうことはあり得ないんですよね。しかも今度50代になってくると、例えば若い頃、一番高い音が出てた頃の音はもう出なくなってくるんですよね。でも、若い頃ストレートな感じで押していたのを、やっぱり歳いくともっとこう、わざと抑えてシリアスに伝えるとか。常に理想は先に進んでいくので、理想に到達するっていうことは多分最後までないんだと思いますね。

(N)ゴールっていうものはないけれども、道中の中で、色んなものの出会いの中で変わっていくだろうし…そういうことだろうと思うんですよね。

(K)そうですね。いろんな音楽と出合うじゃないですか。その、20歳の頃はもうこういうロックシンガーになりたいって思ってて。でもそこから何十年も経ってると、いろんなものを聴いて感動するし、いろんな大人っぽいシンガーなんかもたくさん知るようになってくると、「あぁ、やっぱりこういうふうな歌も歌えるようになりたいな」とかっていうふうに、いろんなことを思うことも、どんどんどんどん理想の中の要素の一つに加わってくるので。

(N)まだまだ、進歩の途中っていうか進化の途中っていうか、そんな感じですよね

(K)はい。ちょっとずつ自分のスタイルを、迷いながら、気が変わりながら、毎日続けていくような仕事なんじゃないのかなって思います。

(N)そこも職人という形で。

(K)そうですね、はい。


(N)本の中に「アニソンっていうのは、番組の応援歌であるべき。主人公にパワーを送る歌であるべき」っていうことが書いてあって。確かに昔のアニソン、僕らの幼稚園とか小学校の時に聴いた、迫るーショッカーーとか、マジンガーーZ、とか。前回の時のライブの時に、キャンディキャンディのエンディングテーマの「あしたがすき」を、リハーサルの時にやっていた時の残像が、僕はちょっと、それが思い出にすごく残っていて。そういう歌をすごく覚えているじゃないですか。アニソンっていうのは。歌っていう、この応援歌であるべきっていうことのあたりのことを聞いてみたいと思うんですけど、影山さんならではのアニソンのとらえ方ってあると思うんですけど、どうでしょうか

(K)やっぱり僕も普通に日本で育った子供が大人になったんで、本当に子供の頃に聴いたアニソンって、音楽のスタイルは古いんだけど、でも理想的なアニソンだったと思うんですよね。それこそ一回聴いたら忘れないし、大人になっても覚えていられるようなキャッチ―な、例えば、迫るショッカーとかマジンガーZとか、そういうのが入ってて。やっぱり伝えたいことがすごくストレートに書かれていて、歌詞の中に。子供たちはそれを聴きながら、学校や親から教わることとは別に、友達に対する、仲間を大切にすることだとか、基本的な正義感とかを、アニメや特撮ヒーローが教えてくれたと思うんですよね。僕らはその、今の時代にそういうものを作るわけなので、ぶっちゃけアニメの初期の頃の感じよりも今はやっぱりサウンドは複雑に、すごく激しくなってきているので、なかなか昔のようなシンプルなものは作りづらいんですけど、でも心の中では、今聴いてくれる子供たち、もし子供たちが聴くものをやったとすれば、子供たちが聴いてくれて、30年40年後までその人の記憶の中に残るような、そのヒーローと一緒になって残るものがアニソンのベストな形だと思います。

(N)ご自身が20代の頃、それこそアイドルバンドグループでデビューし、そして早々と解散し、すぐに結婚し、なんとか二人で食べてく。そして、その中で自分はアニソンで食べてくっていう中で、最高の曲を作って、最高の音楽、最高のパフォーマンスで聴いてもらうって、そして、職業はアニソンシンガーだよって自信を持って言えるようになったのは、いつぐらいからでしょうか?

(K)そうですね、25歳ぐらいからアニメ・特撮の歌を歌い始めたんですけど、ちょうど30手前くらいで聖闘士星矢とかドラゴンボールとかと出合ったんですけど、そこで一挙にこうなんか、ポジション的に言うと水木一郎さんとか堀江美都子さんとかの一番近い後継者みたいな位置に言われることが多くなってきて。お客さんもアニメファンの人がすごく見に来てくれるようになって、その頃には、この世界に救われたって気持ちもあるし、歌ってみるとすごく自分のスタイルと肌が合ったっていうのもあったし、30になった頃には「もう一生俺はこれだな」っていう気持ちにはなっていました。

(N)もう30歳くらいの時には、ある程度の、なんとなく自分の感覚の中でつかめるところがあったということですかね。

(K)そうですね。この道でもっと、奥深くまで進んでいきたいって思いました。

(N)なるほど、ありがとうございます。あの、メルシーズでも4回目っていうことで、うちみたいな地方のこういう会場でもアコギライブをひとりでやるっていうことをやりながら、当然、大きな会場、日本武道館とか大きな会場でも、もちろん当然やられてるので。アニソン業界の底上げのためにJAM projectっていうものもつくりながら、ブラジルやスペインや色々なところで海外公演などおこなうっていう。地道な、直で触れ合うような小さな会場も大事にしながら、そして大きな会場も。振り幅がちゃんとあるっていうか。それがすごく伝わるものがあって、なぜならこういうとこでも3回も4回も訪ねてきてもらうっていうのは、非常に、あまりあるようでないようなことだと僕は思うし、日本武道館など大きな会場でもちゃんと人を集められているし。影山さんの、その、近くの目線と遠くの目線、両方当然持ってると思うんですけど。そういうもの全体、アニソン業界全体を見ているような目線というか。そういうのは、当然、若い頃は自分が売れたいからそこに執着しちゃうと思うんですけど、今はこの全体の中での底上げをしようっていうのは、かなりもうすごく、この本を読んでいて伝わるなぁっていうか、アニソンのね。それっていうのは30代の頃から今までのこの道中でどのように形作られたというか、思考回路がそういうふうになっていったというか。

(K)そうですね、アコギライブやり始めたきっかけっていうのはね、バンドと一緒にライブだと、それこそ大都市しか行けないじゃないですか。特にアニメの音楽とかやってると、日本全国いろんなところからファンの人が来てくれて、大都市集中じゃないっていうか、当然ですよね。テレビってどこでも見れるし、例えばドラゴンボールなんかの主題歌を聴きたいなって思ってくれてる人は、それこそ北海道から沖縄まで、それも札幌じゃないところだったりするところでも北海道とか、いっぱいアニメファンとかいてくれるわけで。なんかこう、そういう人たちに生で聴いてもらいたいなって、まぁギター1本でマネージャーと2人だけだったらどこでも行けるなっていうのがきっかけなんですよね。やっぱり行けば行ったで地元の人が来てくれて、バンドじゃなくてギター1本なんだけど同じ歌がこう、聴いてもらえてみんな喜んでくれてっていう中で、これはやっぱりやって良かったなと。これは続けなきゃいけないなと。あと、もう一つは自分の好きなスタイルが…例えば、武道館なんかでJAM projectなんかでやるときは、でっかい音のバンドで、すごい機材でやるわけなんですけど、そっちでできないような素朴なものは、すごく好きなんですよ。だから、ギターの弾き語りで、特にこういう、すごく雰囲気の良いカフェ的なところとかって、やってて自分自身が幸せを感じるんですよね。なので今、月に2本っていうふうに決めて、できれば今までに行ったことのないぐらいのとこにも行ってみたいねっていうことでマネージャーには。まぁなかなかないんですけど、すごい山奥とか。でも可能な限りいろいろ、自分の国のキャパシティをもうちょっと知りたいなっていうのもあって。日本をもっとよく知りたいってのもあって。これは自分の今のライフワークみたいなものになってると思います、はい(笑)

(N)当然こういうライブ、ライブっていうのは今こういうふうになんだろ、普通にAIからネットからこういう時代の世界なので、本来、生でこういうふうに聴いてもらう、これっていうのは本当にこれからの時代ものすごく大事なものというか。この共感を得る、共振…心が震えるというか、そういうのはやっぱり、生だと思うんだよね。ライブで盛り上がれるっていうのは本当にまさに心が動く、心の震え、魂を、一体感を共有できる形だと思うんですけど、影山さんにとっての大きなもの小さなもの、ライブっていうのは、どんなふうに捉えてるんでしょうか。

(K)どっちも、やっぱり自分の中の一番好きな…ライブが一番好きなんですよね。音楽の仕事の中で。それはやっぱり、ステージに立ってると一番、自分は今を生きているんだって実感を持てる。自分の中のいろんなものを解放できる気がします。

(N)それはどういうものですか?いろんなものっていうのは。

(K)要するに…ハッピーな気持ちも、悲しいっていうか、切ないような気持ちとか。そういう自分の中の心のっていうか、自分の気持ちを一番解放できるのが歌ってる瞬間だと思いますね。

(N)なるほど、はい。

(K)もちろん、あとはストレスもすごく開放できたり。

(N)なるほど。影山さん自身アニソンに救われた1人ということで、アニソン業界それを取り巻く人々に助けてもらったと。今言うようなアニソンは人生そのものであり、ライフワークであると。で、アニソンを世界に繋げてってみんなをハッピーにできる場所にしたいと。国境を越えて人と人を繋ぐ架け橋になると考えている影山さんなんですけど、ズバリ影山さんにとってアニソンっていうのは、ズバリどういうものになるんですかね?

(K)自分にとっては天職だと思ってるんですけど、今おっしゃってくれたみたいな、日本発のもので世界の人たちを繋いでいるものの中…まぁ、日本って元々すごいハイテクな国で、自動車とか、そういうものでずっと世界の中心にいたじゃないですか。もちろん今もそれがメインなんですけど、例えば若い人たちの好きなものとかっていうものの中で、一番手っ取り早く、ハードルも低く、繋がってるもんってやっぱりアニメ周りの文化だと思うんですよね。ゲームとか、アニメとかコスプレとか。アニソンもその中の一つなんですけど。それはやっぱ世界周っててすごく感じてて。特に日本にいるとぶっちゃけ、例えば日本と韓国とか。日本と今の中国とかって、すごく問題をたくさん抱えてるじゃないですか。でも、そういうことが政治的にはあったとしても向こうに行って演奏して思うことは、中国の若い人たちも韓国の若い人たちも、日本の若い人たちと同じようにアニメやゲームやコスプレをすごく愛してくれてて、もう夢中になって楽しんでくれてる。そういう姿こそが未来の、共通の何かを持つことによって理解しあって、お互いにハッピーな気持ちになれるってのが、やっぱり理想の姿だと思うので、そういう中ですごくカジュアルだし、まだ小さな世界なんだけど、日本発のアニメやそういうその手のカルチャーっていうのは絶対、世界の中でとても大切なものだと思うので。それも含めて今は自分も先頭きってやんなきゃダメだなと思ってます(笑)

(N)ありがとうございます。ここからは最後の話になるんですけれども、この本に書いてあったみたいに影山さんのゴールっていうのは本当にないんだろうなって。歳とってくるとその中で、また新しいものが色々入ってくると。自分もお店やりながら、まさか一番最初、この店で終わると思ったけど、3店舗も4店舗もっていうことを考えてなかった。ここ1号店がちょうど20年なんですよ、今年が。その道中でいろんな出会いがあるし、いろんな人に支えられながら、ここに出店しないかって、今度もまた面白いところに出させてもらうんですけれど、そういうのはだいたい外から入ってくるんですよね。向山のあのお店も、ここでやってみないかとか。そういうのはやってる道中は分からないけれども、どういう道にどこに辿り着くかは分からなくても、多分本で書いてらっしゃること、この先どんなことがあるのかわからないけれども、今のこの時点を一所懸命頑張ってれば、どこかでいろんな方が見てくれていて、自分が知らないゴールがもしかしてあるのかなとか、そういうような感じになるのかなとか思ったんですけど。

(K)今おっしゃってくれた通り、同感です。

(N)ゴールなんてのは、確かに、若い頃にはそういうものがあってもいいかもしれないですけれど、ここまでくる道中でのゴールっていうのは、先は分からないけれども、今は流れの中で誰かに見ててもらっててどこかに辿り着くゴールっていうのは、多分わかんないと思うんですよね。それでいいと思う。すごく、この本読ませてもらって良かったなぁって。今日もこうやってメルシーズに来てもらって、すごい良かったなって。ありがとうございます。

(K)ありがとうございます!

※対談中に出てくる書籍は、この1月に出版された影山ヒロノブさんの著書『ゴールをぶっ壊せ』中公新書 です。

(対談:2018.02.09   インタビュアー:メルシーズ 中田)

影山 ヒロノブ(KAGEYAMA HIRONOBU)
1977年ジャパニーズロック史において輝きを放つバンド「LAZY(レイジー)」のボーカル”ミッシェル”としてデビュー。アニメ・特撮ソングに出会い、数々のアニメソングを歌い、その中でもフジテレビ系アニメ「ドラゴンボールZ」主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA(チャラヘッチャラ)」やテレビ朝日系アニメ「聖闘士星矢(セイントセイヤ)」主題歌「ソルジャードリーム〜聖闘士神話」で、日本のアニソン界を代表する地位を確立した。現在では作詞、作曲、編曲、プロデュースをこなす「アニソンアーティスト」として数々のプロジェクトに参加。2000年にその後のアニソン界に大きな足跡を残すJAM Project(ジャムプロジェクト)を結成。<br>この頃から自身のライフワークとしての「アコースティックスタイル」の「影山ヒロノブ」として「月間2本」をノルマとして、全国津々浦々までその音楽を届けている。また、海外での人気も高く現在までに訪問した国は、アジア、北中南米、ヨーロッパ併せて12カ国に上る。2003年からは毎年世界各地5カ国以上から「ANISON」イベントのオファーを受け、2008年にはついにJAM Projectを率いて日本のアーティストとしては数少ない「ワールドツアー」(世界8カ国10都市)を敢行した。

〈ウェブサイト〉http://airblanca.com